イソップ寓話の中に、「キツネとブドウ」という話があります。キツネが木にぶら下がったブドウを見つけます。手を伸ばしても届かない。何度試してもうまくいかない。そこでキツネは言います。「どうせあのブドウは酸っぱいに違いない」と。そして去っていきます。
これは自己欺瞞の古典的な物語です。でも興味深いのは、キツネが嘘をついているわけではないことです。おそらく、去るころには自分でもそれを信じているのです。心は、事実のあとから「理由」を作り出すのがとても上手です。その理由は、熟考の末の判断のように聞こえます。でも実際は、全く別のものです。
仕事でも見る光景
このパターンを、仕事の場面で目にすることがありました。特にテクノロジーや考え方など新しいツールをめぐって。新しいプラットフォームが登場します。新しい働き方、新しいアプローチ。そして、誰かが本当に試す前に——十分な時間をかけて自分の意見を形成する前に——判断が下されます。「話題性だけで中身がない」「自分には関係ない」「すぐ廃れる」「使っている人は本質をわかっていない」。
ときにその判断は正しいこともあります。すべての新しいものに時間を使う必要はありませんし、取捨選択することには本物の知恵があります。でも、取捨選択と回避は違います。一方は、明確な場所から来ています。もう一方は、不安に近い場所から来ています——まだ知らないことへの不安、遅れているような感覚、馴染みのないものを学ぶ労力への恐れ。
新しいものへの冷笑は、不安が姿を変えたものかも…。そして不安が語るとき、それはとても合理的に聞こえるんですよね。
– Somatic Clarity
本当のコストは何か
キツネの論理のコストは、ブドウを食べられなかったことだけではありません。「自分には届かない」と判断するものの範囲が、少しずつ狭まっていくことです。それは静かに、時間をかけて起こります。
同じ動きを繰り返すうちに——「切り捨てる、去る、理由を作る」——到達できると感じる円が小さくなっていきます。ある日ふと気づいたとき、世界は自分が追わないことにした方向へ動いていて、それは吟味して選んだのではなく、知らないと認めることが怖かったからだった、ということがあります。
それがキツネにできなかったことです。試して、届かなかったと認めること。今は、まだ届かなかっただけだと。
意図を持って関わるということ
すべての新しいものを採り入れるべきだと言いたいのではありません。それは逆の誤りです——「乗り遅れたくない」という別の不安から来る、無闇な受容です。不安から来る拒絶も、不安から来る受容も、私が「識別」と呼ぶものではありません。
私が言いたいのは、もっと静かなことです。何かに少し触れてみること。擁護するためでも、全面的にコミットするためでもなく——ただ、自分が意見を持つときに、それが実際の経験から来るものであるために。「試しました。こう感じました。だから自分には合う/合わない」と言えるために。
それは、「試さずに、試す価値がないと決めた」という言葉とは、全く違います。
ブドウは、たぶん美味しかったと思います。いや、確かではありません(笑)——本当に酸っぱいブドウもあります。でもキツネは知らなかった。届かなかったという失敗と、傷ついたプライドから判断を下して、それを知恵だと思い込みました。
それと本当の識別の違いは、外からは見えにくいことが多いです。でも内側では、どこかで感じられることがあります。そのテーマが出るとき、少し身構える感覚。会話を早く終わらせたい気持ち。単純な選択のわりに、少し大きすぎる安堵感。
そういったことに気づくことに、自己批判は必要ありません。なぜならそれは情報に過ぎないから。






