どうも、この人とは合わない。
考え方も違うし、分かり合える気もしない。
一緒にいて、心地よいわけでもない。
だからといって、すべての人間関係を「合わないから離れる」で整理できるわけでもありません。
職場の人。
義理の家族。
地域やコミュニティで関わる人。
離れるわけにはいかない。
あるいは、離れるほどのことでもない。
そんな関係があります。
「合わない」という違和感を抱えたまま関係を続けていると、相手に変わることを求めるか、自分が我慢するか。
相手が間違っていることにすれば、相手を追い詰める。
自分が合わせなければと思えば、自分を追い詰める。
どちらかが悪いことにしなければ、この違和感は扱えないのでしょうか。
そうなる前に、一つ試せることがあります。
今、この関係をどんなレンズで見ているのか。
一つ、レンズを借りてみる
人間関係を見るとき、私が時々使っているレンズがあります。
「友達」と「仲間」を、少し違う関係として見てみる。
これは、友達とは本来こういうもの、仲間とはこういうもの、という定義ではありません。
「仲間も友達の一種でしょう」と思う人もいるでしょうし、それでいいと思います。
ここではただ、目の前の関係を見るために、二つの言葉をこんなふうに使ってみます。
友達は、何か目的がなくても一緒にいられる人。
何もしないで時間を過ごす。
話す。
一緒に旅行する。
それだけで成立する。
仲間は、同じ目的に向かって一緒に動く人。
趣味が同じでなくてもいい。
価値観が全部一致していなくてもいい。
一緒に何かを達成するために協力できる。
そして、その目的が終われば、そこで関係が終わることだってあります。
もちろん、一人の人が友達でもあり、仲間でもあることもあります。
人を二つに振り分けたいわけではありません。
ただ、このレンズを一枚持ってみる。
すると、それまで「合う/合わない」で見ていた関係に、別の見え方が出てくることがあります。
どこなら成立する?
たとえば、職場にどうも好きになれない人がいる。
一緒に住みたいとは思わない。
休日に遊びたいとも思わない。
人生について語り合いたいわけでもない。
でも、仕事ではどうでしょう。
同じ目的を理解して、一緒に仕事を進められる。
だとしたら、
友達にはならないかもしれない。でも、仲間としては成立している。
そう見ることもできます。
逆もあります。
一緒に旅行すると楽しい。
何時間でも話せる。
何もしなくても一緒にいられる。
でも、「一緒にこれをやろう」と何かの目標に誘うと、どうも乗り気ではない。
そこで、
「友達なのに、どうして一緒にやってくれないんだろう」
と考えることもできます。
でも、その人とは、一緒に何かを達成しなくてもいいのかもしれません。
友達としては、もう十分に成立している。

深く分かり合うことだけが、良い関係ではない
人間関係は、深く分かり合えるほど良い。
私は、必ずしもそうではないと思っています。
深く分かり合える関係もある。
一つの目的だけを共有する関係もある。
ある期間だけ一緒に何かをする人もいる。
人生の長い時間を一緒に過ごす人もいる。
必要なものが違うだけです。
すべての人に、自分を深く理解してもらう必要はありません。
すべての人と、価値観を共有する必要もありません。
そして、分かり合えないからといって、その関係が成立していないとも限りません。
「離れる」以外の選択肢
もちろん、離れた方がいい関係もあります。
「合わない」という感覚を無視して、どんな関係も続ける必要はありません。
ただ、「合わないから離れる」だけが、人間関係の違和感を扱う方法になっていると、離れられない相手が現れたとき、行き場がなくなります。
相手を変えようとする。
自分が我慢する。
相手を否定する。
自分を否定する。
そのどちらにも行かずに、できることがあります。
この人とは、どこなら関係が成立するんだろう。
と見てみることです。
棲み分ける
これは、嫌な相手を好きになることではありません。
分かり合えない相手を、無理に理解することでもありません。
相手を見下す必要もなければ、自分を卑下する必要もない。
何を共有できれば、この関係は成立するのか。
何まで分かり合わなくてもいいのか。
どこから先は、求めなくてもいいのか。
そこを見ていく。
関係を切るのでも、無理に深めるのでもなく、その関係が成立する場所を見つける。

そして、棲み分けることには、もう一つ意味があると思っています。
苦手だと思い始めた人が、いつのまにか、自分の中で大きな存在になっていることがあります。
今日はいるだろうか。
また何か言われるだろうか。
できれば関わりたくない。
そうやって警戒しているうちに、ただ苦手だった人が、自分にとっての脅威になっていく。
棲み分けは、相手のためだけにするものではありません。
自分の世界を、その人によって必要以上に住み心地の悪い場所にしないためでもあります。
この人とは、ここでなら成立する。
ここから先は、求めなくていい。
そうやって関係の置き場所が見つかると、その人を好きにならなくても、自分の世界の中でその人が占める場所は変わることがあります。
「友達」と「仲間」でなくても構いません。
これは、人を正しく分類するためのレンズではないからです。
今まで一つの見方では「合わない」としか見えなかった関係に、別のレンズを一枚置いてみる。
その人との関係には、その人との関係なりの置き場所があるのかもしれません。
私は、そんな棲み分けがあってもいいと思っています。
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