今朝、Martin Picardという研究者のインタビューを見ていました。
Picardらの研究では、一本の毛髪の色の変化を時間軸に沿って調べることで、白髪が黒に戻ることがあること、そして一部では、その変化が心理的ストレスの増減と並行していることが観察されています。
その話を聞きながら、私は「あ、これ知ってる」と思いました。
白髪のことではありません。
起きていることと、それをどう体験しているか。
私たちは、この二つをどのくらい分けて見ているだろう。
たとえば、トラブル。
予定していたことが突然変わる。
待っていた返事が来ない。
思いがけない問題が起きる。
一つならまだしも、いくつか重なる。
「トラブルや。どうしよう。」
その瞬間、そこには「トラブル」というものがあって、自分はその中に放り込まれたように感じます。
でも、「トラブルだ」と体験していることと、実際に何が起きているかは、同じではありません。
やってられるかーー!!!!
私にも、ときどき、
「やってられるかーー!!」
「ふっざけんなよーー!!」
くらいに感じることがあります。
Somatic Clarityを実践しているからといって、こういう反応をしなくなるわけではありません。
むしろ、そんな自分も観察しています。
「ああ、私、今ものすごく腹を立ててるな。」
ときには、
「あ、私、今『足元を見られてる』って感じてるんだな。」
と気づくこともあります。
本当に足元を見られているかどうかは、ここでは関係ありません。
今見ているのは、相手の意図ではなく、自分が何を体験しているかだからです。
そして、そういうとき、私は自分を「冷静ではない」とも、あまり思っていません。
それくらい嫌だと感じているなら、それくらいの反応が出る。
私にとっては、想定範囲です。
ただ、その勢いのまま行動するわけではありません。
怒っていることと、怒りに次の行動を決めさせることは、同じではないからです。

手前から見ていく
ここで私がやっているのは、
「こんなことで怒ってはいけない。」
と自分を落ち着かせることではありません。
「相手にも事情がある。」
と理解しようとすることでもない。
怒りを早く発散して、すっきりしようとしているわけでもありません。
その向こうにあるところまで辿り着くために、今あるものから見ていきます。
「ふっざけんなよ」と思っているなら、まずそこから。
私は今、何にこんなに腹を立てているのだろう。
何がそんなに嫌なのだろう。
予定が崩れたことなのか。
自分ではコントロールできないことなのか。
何かを失うように感じていることなのか。
自分の境界を越えられたように感じていることなのか。
「ストレス」という大きな塊のままにせず、少しずつピントを合わせていきます。
すると、
「全部が嫌だ。」
と思っていたものの中から、自分が実際に反応している場所が見えてくることがあります。
「トラブル」と、起きていること
私たちはよく、
何かが起きた。
だからストレスを感じた。
と考えます。
もちろん、外側で起きたことは存在します。
たとえば、飛行機が欠航したなら、欠航しています。
予定していた日に目的地へ着けない。
宿が必要になるかもしれない。
翌日の予定を変更する必要があるかもしれない。
それは、考え方を変えてもなくなりません。
でも、「大変だ。どうしよう。最悪だ。」
という体験と、
「今日の便は欠航した。次の便を確認する必要がある。」
という状況の記述は、同じではありません。
これは、「すべては捉え方次第です。」
という話ではありません。
現実に対応が必要なことはあります。
危険な状況もあります。
離れた方がいい場所もあります。
NOと言った方がいいこともあります。
むしろ、起きていることと、自分がそれをどう体験しているかを分けることで、
実際に何に対応する必要があるのかが見えやすくなります。
こうなったら、こうする
自分が何に反応しているのかにピントが合ってくると、私はそこで考えます。
こうなったら、こうする。
ああなったら、ああする。
ここまではやる。
ここを越えたら、やらない。
そうなったら、別の選択をする。
まだ問題そのものは解決していないかもしれません。
状況も変わっていない。
相手がいるなら、その人も変わっていない。
それでも、自分がどうするかは決められる。
さっきまで「もう全部どうでもいい」と思うほど大きかったものに、少しずつ輪郭が戻ってきます。
この条件なら、こうする。
ここまでなら、こうする。
それ以上でも、それ以下でもない。
そして、自分の人生が戻ってきます。

ハンドルが戻る
面白いことに、私の場合、そのあたりで、さっきまで頭の中を占めていた悪態がおかしくなってくることがあります。
「ふっざけんなよーー!!」
……って、ずいぶん怒ってるな、と。
別に、怒りがきれいに消えたわけではありません。
相手を好きになったわけでもない。
問題が解決したわけでもありません。
ただ、もうその問題が、自分の人生のハンドルを握っていない。
自分がどうするかを、自分で選べるところに戻っている。
私にとって「冷静になる」というのは、たぶん、静かになることではありません。
腹が立っていてもいい。
「ふざけんな」と思っていてもいい。
それでも、何が起きているのかが見えていて、自分が次にどうするかを自分で選べる。
そこまで辿り着くと、少し笑える余白も戻ってきます。
起きていることと、体験していること
ストレスを感じたとき。
「こんなことでストレスを感じてはいけない」と、自分を修正する必要はありません。
「これはストレスではない」と、状況を言い換える必要もありません。
まず、私は今、これをストレスとして体験している。
そこは、そのままでいい。
「やってられるかーー!!」なら、そこから。
そして、もう一つ見る。
実際には、何が起きている?
私は何に反応している?
何が必要?
どこまでならやる?
どうなったら、私は別の選択をする?
起きていることと、それをどう体験しているかは、同じではありません。
その二つを分けて見られると、トラブルがなくなるとは限りません。
ストレスを感じなくなるとも限りません。
ただ、「トラブル」に握られていたハンドルが、自分の手に戻ってくることがあります。
そして、そのとき。
トラブルは、自分の人生そのものではなくなる。
ただ、今ここで対応するものだった。
そんなふうに見えてきます。
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