何も変わらなかった、はずなのに

何も変わらなかった、はずなのに

21〜32分

好きな人に告白して、振られた。
告白する前も、告白した後も、二人は恋人ではない。

では、何も変わらなかったのでしょうか。

ふんぎりがついたかもしれません。
反対に、かえって諦められなくなったかもしれない。
気まずくなったかもしれないし、意外にも以前より親しくなったかもしれません。
あるいは、翌朝にはいつもと変わらず目を覚まし、いつもと同じように一日を過ごしたかもしれません。
告白しなかった場合にも、また別の日々が続いていたでしょう。

どちらがよかったのか。
それは、簡単には決められません。
ただ、一つだけ確かなことがあります。
告白した世界と、告白しなかった世界は、同じではないということです。

何を手に入れたか、ではなく

もう少し、ありふれた話をしましょう。

店で欲しいものを見つけた。
買おうかどうか迷って、その日は買わずに帰った。
翌日、やっぱり欲しくなって店に戻ったら、売り切れていた。
「ああ、昨日買っておけばよかった」
そんな経験はありませんか。

ここにも、いくつもの世界があります。

あの品物を買った私。
迷った末に買わなかった私。
買おうと思ったときには、すでに売り切れていた私。
そして、その品物の存在すら知らなかった私。
どれも、同じ私です。
けれど、それぞれが経験した出来事は違います。
手元に品物がないという結果だけを見れば、同じに見える世界もあります。
でも、同じ座標ではありません。

欲しいと思ったこと。
迷ったこと。
買わないと決めたこと。
売り切れを知って、がっかりしたこと。
あるいは、売り切れたと知って、少しほっとしたこと。
それらはすべて、実際に起きた出来事です。

一方、その品物を知らなかった私には、その出来事自体がありません。

つまり、何を手に入れたかという結果だけを見れば同じでも、そこで起きたことは違うのです。
何を手に入れたかではなく、何が起きた世界にいるのか。
私は、この違いを「座標」として考えることがあります。

鼻の左のホクロと、右のホクロ

二つの世界を、隣同士に並べてみるとします。
片方は、あのとき告白した世界。
もう片方は、告白しなかった世界。
二つの世界にいる自分を見比べてみても、何も違わないように見えるかもしれません。
同じ顔。同じ服。同じ部屋。
同じように朝ごはんを食べ、同じように電車に乗る。

ひょっとすると、違いといえば、鼻の左にあったホクロが、もう一方の世界では右にある。
その程度かもしれません。
あるいは、ホクロの位置すら同じで、どれほど目を凝らしても違いを見つけられないかもしれない。
それでも、二つは違う世界です。
一方では告白という出来事が起き、もう一方では起きていない。
その違いは、消えません。

では、その二つの世界を、十年先まで進めてみたらどうでしょう。

相変わらず似たような毎日を送っているかもしれません。
けれど、驚くほど違う場所にいるかもしれない。
暮らしている街も、隣にいる人も、毎朝見ている景色も、まるで違う。
鼻のホクロが右か左か。
そんな違いしか見つけられなかった二つの世界が、どうしてそこまで違うものになったのか。
私たちには、想像もつかないかもしれません。

もちろん、ホクロの位置が未来を変えた、という話ではありません。
ホクロは、目に見える違いのたとえです。
そもそも、何がどこでどう繋がっているのか、私たちは世界のすべてを知っているわけではないのです。

世界は、静止した地図ではない

座標というと、地図の上の一点を思い浮かべるかもしれません。
現在地があって、目的地があって、その間を移動する。
でも、私が考えている座標は、少し違います。
地図そのものが、絶えず動いているのです。

誰かが歩く。
犬が散歩に出かける。
ありんこが餌を運ぶ。
雨が降る。電車が遅れる。知らない人同士が、たまたま言葉を交わす。
ある人は決断し、別の人は迷い続ける。
誰かが何かを買えば、その品物は、次に店を訪れた人には買えなくなるかもしれません。
数えきれないほどの出来事が、同時に起きています。

一つの動きが、別の動きと交わり、また別の動きへと繋がっていく。
その連なりは、どこから始まって、どこで終わるのかさえわかりません。
そして、その中には、私たちが何もしなかったように見える時間も含まれています。

告白しなかった。
買わなかった。
返事をしなかった。
それもまた、世界の中で起きたことです。

何かをしなかったからといって、世界が一時停止するわけではありません。
自分が迷っている間にも、ほかの人は動き、季節は変わり、さまざまな出来事が重なっていきます。
しかも、その全体を見渡せる人はいません。
だから、ほんのわずかな座標の違いが、その後どんな違いに繋がるのか、私たちにはわからない。
その違いが大きく現れるとも限りません。
けれど、最初から同じ座標だったことにはならないのです。

私たちは、理由をつけたがる

何かがうまくいかなかったとき、私たちは理由を探します。

「あのとき、もっと早く決めればよかった」
「慎重すぎた」
「自分には縁がなかった」

反対に、思いがけず良い結果になれば、こんなふうに考えるかもしれません。

「あのとき買わなくて正解だった」
「すべては、このために必要だったんだ」
そうやって過去を振り返ること自体は、ごく自然なことだと思います。

実際、私たちの行動には理由があります。
欲しいから買う。高いから迷う。失敗が怖いから見送る。

そのとき感じたことも、考えたことも、現実です。
ただ、その理由が世界全体の動きを説明しているかというと、話は別です。

告白して振られた結果、ふんぎりがついたこともあるでしょう。
それは、その人に起きたことです。
でも、「ふんぎりをつけるために振られた」とは限りません。
買わなかったことが、後になって何かの役に立ったとしても、最初からそのために買わなかったとは限らない。

私たちは、後から出来事を繋いで、一つの物語を作ることができます。
それは、自分の人生を理解するための大切な働きでもあります。
けれど、物語は、起きたことのすべてではありません。

勝つことと、行きたい場所へ行くこと

ここで、少し視点を変えてみます。

私たちは、ときどき、望んでいる状態と、それを実現するための手段を取り違えることがあります。

例えば、誰かと意見が対立したとします。
最初は、ただ自分の考えを理解してほしかった。
でも、話しているうちに腹が立ってきた。
相手の間違いを証明したい。言い負かしたい。謝らせたい。
そして、ついに相手が折れた。
勝った。

でも、その後の関係は、以前よりずっと悪くなっている。

さて、本当に行きたかったのは、そこだったのでしょうか。

理解し合える関係が欲しかったのか。
相手に勝ちたかったのか。
この二つは、同じではありません。

もちろん、対立には事情があります。相手が理不尽なこともあるでしょう。譲ってはいけないことだってあります。
ただ、何を守ろうとしていたのかを見失ったまま、勝つことだけが目的になることがあります。

これは、もっと大きな出来事にも当てはまるのかもしれません。

大切なものを守りたい。
そのために戦う。
けれど、勝利したとき、周囲が廃墟になっていたら。
本当に望んでいたのは、廃墟の中で大切なものが守られた世界だったのでしょうか。
それとも、破壊されることなく、大切なものが守られている世界だったのでしょうか。

現実には、戦わなければ守れない状況もあるのかもしれません。
考え方を変えるだけで、すべての争いがなくなるとも限りません。
それでも、目的と手段を同じものとして扱わないことには、大きな違いがあると思います。
望む結果を得ることと、望む世界にいることは、同じではない。
目の前の勝ち負けに心を奪われると、私たちは自分がどの座標へ向かっているのかを見失うことがあるのです。

駒であり、プレイヤーでもある

私は、ときどき世界を大きなゲーム盤のように想像します。
その上には、数えきれないほどの駒があります。
人間も、犬も、ありんこも。
でも、それらは誰かに動かされるだけの、生命のない駒ではありません。

それぞれが生きています。

お腹が空けば食べ物を探す。
危険を感じれば逃げる。
誰かを好きになる。
何かを恐れる。迷い、考え、決断する。

私たちは、そうして動いています。

そして、私はその駒の一つであると同時に、プレイヤーでもあると考えています。

少し奇妙に聞こえるかもしれません。
駒を動かすプレイヤーが、同時にその駒でもある。

では、いったい誰が、誰を動かしているのでしょう。

私が自分の意志で動いている、とも言えます。
世界全体の動きの中で、私が動かされている、とも言えます。

でも、この二つは、本当に別々のことなのでしょうか。

私には、私という身体から見えている世界があります。
けれど、その身体も、私が見ている世界も、世界全体から切り離されて存在しているわけではありません。
どこまでが私で、どこからが世界なのか。
考え始めると、その境界も、案外はっきりしなくなってきます。

駒であり、プレイヤーでもある。
その『プレイヤー』を、何と呼ぶのか。
神様でも、宇宙でも、生命そのものでも。
私には、よくわかりません。
何と呼んだとしても、世界はただ動いている。
そして、私もその動きの一部である。 そんなふうに捉えています。

何も変わらなかった、はずなのに

私たちは、行動の結果を見て、成功や失敗を判断します。

告白して、恋人になれた。
なれなかった。
欲しいものを買えた。
買えなかった。

その評価が役に立つこともあります。
でも、結果だけを見ていると、見落としてしまうものがあります。
何も得られなかったように見える出来事も、起きなかった出来事とは違うということ。
そして、その違いがどこへ続くのかは、まだ誰にもわからないということ。

いつもと違う道を歩いてみる。
いつもとは違うブランドのトイレットペーパーを買ってみる。
そんな些細な選択が、思いもよらない座標へ繋がることもあるのかもしれません。
けれど、その選択自体が、もともとその座標で起きることだったのかもしれない。

私たちには、それを確かめることはできません。

いつもと違う道を歩いたことで、思いがけない人に出会うかもしれません。
それが、後になって大きな出来事に繋がることもあるでしょう。
けれど、必ずそうなるわけではありません。

明日、突然ものすごく幸運な人になれるとは限らない。
長年続いた喧嘩が収まるとも、思いがけない幸運が舞い込むとも限りません。
何かを起こそうと狙って選んだ道が、期待した場所へ続いている保証もありません。

一方、いつもの道を歩いたことも、道を変えようと思って結局やめたことも、それぞれ違う座標です。
小さな行動が、思いがけない現実の変化に繋がることはある。
ただ、それも、数えきれないほどの出来事が同時に起きている世界の、ほんの一コマなのです。

駒を進めることは、必ずしも前進することではありません。

右へ行くことも、左へ行くこともある。
引き返すことも、そこに留まることもある。
そして、何もしなかったこともまた、「何もしなかった」という座標を生みます。
それは、迷うことすら知らずにいた座標とは、確かに違うのです。

その間にも、盤面のほかの駒は動き続けています。

私たちは、どの一手がどんな未来へ繋がるのかを、知ることはできません。
何年か経って、思いがけない場所にいる自分に気づく日があるかもしれません。

「あれ? 私、どうやってここまで来たんだろう?」

そのとき、鼻のホクロが右にある私と、左にある私は、それぞれどんな景色を見ているのでしょう。
そして、そもそもホクロの位置なんて、誰も気にしていないかもしれません。

それでも、私たちは確かに、今ここにいるのです。

The Compass — 今いる場所を、もう少しよく知るために

私たちは、自分がどんな座標にいるのかさえ、十分にわかっていないのかもしれません。
何を選び、何を選ばず、何を望み、何に迷っているのか。
The Compass は、16の座標を手がかりに、今の自分の現在地を探索するためのツールです。
どこへ向かうべきか、正解を教えるものではありません。
まずは、自分がどこにいるのかを、もう少し正確に見てみる。
そんな探索のお供に。
The Compass — 現在地を観察する16の座標

Kaeko

大人になってからのほとんどを、私は文化と文化の間で生きてきました。

人と人。

人と組織。

異なる価値観。

異なる世界。

私の仕事は、いつもその間に立つことでした。

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