身体に残る、かつての選択。

身体に残る、かつての選択。

今、自分の中にあるかもしれないもの

新しいことを前にしたとき、
「私はこれをやりたいか」
より先に、
「失敗しないか」
「大丈夫だと保証されているか」
「誰かをがっかりさせないか」
を、先に読んでいることはないでしょうか。
慣れていること、得意なこと、失敗しても大丈夫だと分かっていることであれば、多くの場合、普通に選べます。
基準が変わるのは、勝算の読めない、新しい経験を前にしたときです。
そこでは、選ぶ基準が、いつのまにか「やりたいか」ではなく「失敗しないか」になっていることがあります。

その読み方が必要だった場所

人には、自分の「やりたい」という気持ちを拾い、それを実際に世界に向かって試してみる動きが、もともとあります。
やってみる。
うまくいかない。
また試す。
そうやって自分を世界に向けて試していく中で、
子どもの頃は特に、「これ、見ていて」
という気持ちが伴うこともあります。
自分がやっていることを、誰かに知っていてほしい。
けれど、自分の「やりたい」に従って、十分に試行錯誤できない時期があったのかもしれません。
理由はいろいろあり得ます。
そして、ここで大切なのは、その原因を突き止めることではありません。
その出来事の中で、かつての自分は何を読み、どうすることを選んだのか。
そこを見ることです。

それは、かつて必要だった筋力だったのかもしれない

Somatic Clarityで大事にしていることの一つに、
今あるものには、それがそうなった理由がある
という前提があります。
「やりたいか」より「失敗しないか」を先に読む。
この読み方も、間違った回路や、未発達な状態として見る必要はないと思っています。
それまで生きてきた環境の中で、
「失敗しない」
「期待に応える」
「誰かを落胆させない」
ことを読む必要があった。
そして、その状況の中で、自分なりの選択をした。
長いあいだ、その方向の筋力を使ってきた。
その結果として、今この読み方があるのだとしたら。
それはかつて、その人にとっての処世術であり、その時を生きるための選択だったのかもしれません。
だから、まずその選択を否定しない。
「あのときの私は、そうすることを選んだんだな。」
そう見ることも、自分の過去を尊重する一つの方法であり、
新たな選択を自分に許す合図でもあると思っています。

問うのは、その選択が今も適切か

過去を振り返るのは、犯人を探すためではありません。
何が悪かったのかを特定して、それを解決すれば今の自分が変わる、という話でもありません。
見るのは、
そのときの自分が何を選んだのか。
そして、
その選択は、現在も自分にとって適切なのか。
ということです。
かつて必要だったものが、今も必要だとは限りません。
逆に、今も自分を支えているものなら、無理に手放す必要もありません。
過去を理解することは、過去を書き換えることではなく、
今の自分が、もう一度選べるようになること。
私は、そんなふうに考えています。

見るべきは、直し方ではなく、現在地

だから、ここで見るべきなのは、
「どう直すか」
ではありません。
まず見るのは、現在地です。
「私は、自分がやりたいかよりも失敗しないかを尊重する筋力(回路)を、長いあいだ使ってきたんだな。」
そう、今の自分の使い方を認識する。
そして、かつてその使い方が必要だったとしても、
今のこの現在地でも、それが最適なのか。
あらためて見てみる。
古い読み方を消したり、克服したりする話ではなく、
今の自分にとって、その読み方がまだ合っているのかどうかを、現在地から確かめ直す話です。

身体は、権威ではない

Somatic Clarityでは、身体の反応を、そのままGOかSTOPかの命令としては扱いません。
The body is not the authority. The body is part of the intelligence.
身体は重要な情報源です。
ただし、それだけが判断する主体ではありません。
「失敗しないか」を読んでいるなと感じた時、
それをそのまま止まる理由にするのでも、無視して押し切るのでもなく、
「私は今、こう読んでいるんだな。」
と、一つの情報として見る。
そして、その読み方がかつて必要だったことに気づいているなら、
「これは、かつての私が必要としていた読み方かもしれない。」
と見ることもできる。
その上で、
今の私は、どうするのか。
そこまで含めて、現在地を確かめる作業なのだと思います。

踏み出すことは、生きることそのもの

ここから先、新しい経験を重ねることが必要になる、と言いたいところですが、少し違うと思っています。
踏み出すのは、身体に情報を与えるためでも、識別力を上げるためでもありません。それはあくまでも結果です。
踏み出すことそのものが、生きることだからです。
踏み出せば、うまくいくこともあります。
失敗することもあります。
恥ずかしい思いをすることもあります。
それでも戻ってくることもあります。
思っていたのと違って、また選び直すこともあります。
それらを全部含めて、生きるということだと思っています。
観察したり、読み分けたりする力が、その中で結果として育っていくことはあるかもしれません。
でも、それを目的にする必要はありません。
見えるようになるために生きているわけではないからです。

それでも、人生は続く

古い身体の回路がある。
その回路が生まれたところには、かつての自分なりの理由と選択があった。
それを知ったからといって、過去を解決する必要はありません。
「あのときの私は、そうしたんだな。」
まず、それでいい。
そして、人生は続きます。
では、今の自分は、ここからどうするのか。
かつての選択を否定することなく、
今の現在地から、もう一度選ぶ。
踏み出すというのは、必ずしも「やる」ことではありません。
「やらない」と選ぶことも含めて、
今の自分が、今の現在地から、次を選ぶということだと思っています。

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Kaeko

大人になってからのほとんどを、私は文化と文化の間で生きてきました。

人と人。

人と組織。

異なる価値観。

異なる世界。

私の仕事は、いつもその間に立つことでした。

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