私の本棚にある、読むための本、読みたい本
私には、読まなくてはならない本があります。
仕事や何かを調べるために、必要だから読む本。
それとは別に、読んでおいたほうがいいと思って読む本もあります。
そして、もうひとつ。
ただ、読みたいから読む本があります。
最近読んでいる本の多くは、この三つ目に入ります。
『古書の来歴』や、今読んでいる『8(エイト)』もそうです。
何かを学ばなくてはならないわけでも、仕事に必要なわけでもありません。
映画を見るのと同じように、本を読む。
私にとっては、娯楽です。

ただ、同じ娯楽でも、読書は少し能動的です。
映画なら、映像も音も、ある程度の速度も、向こうからやってきます。
本から渡されるのは、ほとんどが文字だけです。
そこから場所をつくり、人の姿をつくり、声をつくる。
少しぼんやりしていると、
「……この人、誰だったっけ」
となって、何ページか戻ることもあります。
読むという行為には、こちら側の参加が必要です。
自分にも、読ませておく
最近は、本をAIに読ませて要約することもできるようになりました。
実際、私の友人にもそうしている人がいます。
それが悪いとは思いません。
必要なのが、その本に何が書かれているかという情報なら、とても便利な方法だと思います。
私自身、AIを使います。
ただ、本を読むことと、本に書かれていることを知ることは、同じではありません。
AIについて、何をインプットするかによって、返ってくるものが変わると言われます。
それは、人間も同じなのではないかと思います。
たとえば、誰かにメールや手紙を書くとき。
分かりやすく伝えること。
相手との距離に合った丁寧さを選ぶこと。
断りにくいことを断ること。
簡単には言葉にならないことを、できるだけ正確に伝えること。
そういう文章を書くためには、「こう書けばいい」という方法を知っているだけでは、どこか足りません。
自分自身が、たくさんの文章を読んでいる。
普段は使わない言葉に出会っている。
自分なら組み立てないような文を通っている。
難しくて、同じところを二度読んだことがある。
意味が分からず、前へ戻ったこともある。
一文が妙に残って、しばらく先へ進めなかったこともある。
そういう時間や経験まで含めて、自分の中に入っている。
自分にも、読ませておく。
ということなのだと思います。
今なら、AIに頼めば、文章としては問題のない手紙を書くこともできます。
でも、それが「あなたの手紙」として相手の心に届くかどうかは、また別の話です。
何を伝えるのか。
どの言葉を選ぶのか。
どこまで説明し、どこを残すのか。
どの言葉なら、自分が言った言葉として置けるのか。
その選択の奥行きは、これまで自分が何を読み、何を聞き、何を見て、どう生きてきたかと、無関係ではないように思います。
だから私は、ときどき、少し古い文章も読んできました。
明治、大正、昭和初期の作品。
翻訳された小説。
今の自分が普段触れている言葉とは、語彙も、文章の運び方も、ものを見る位置も違うもの。
読みやすいものばかりではありません。
「これは、なかなか進まないな」
と思う本もあります。
それも含めて、読むという経験なのだと思っています。
整備された道を旅する楽しみ
とはいえ。
いつも険しい山に登りたいわけではありません。
最近読んだ『古書の来歴』(ジェラルディン・ブルックス著)や、今読んでいる『8(エイト)』(キャサリン・ネヴィル著)は、私にとっては比較的読みやすい本です。
旅にたとえるなら、ある程度きちんと道が整備された場所を旅する感じでしょうか。
もちろん知らない場所なので、ときどき地図は見ます。
でも、藪をかき分けて進むほどではない。
景色を見る余裕があります。
そして、この二冊には、私が好きなものがたくさんあります。
歴史。
時間。
人と人とのつながり。
そして、ひとつのものが、見る人や時代によって違う姿を見せること。
ある人にはこう見えていたものが、別の人にはまったく違って見える。
ある時代では正しいとされたものが、別の時代には否定される。
さらに時代が変われば、その意味がまた変わる。
出来事そのものと、そこに与えられる意味は、必ずしも同じではありません。
私は、そういう物語が好きなのだと思います。
この秋、少し遠くへ行きたいけれど、あまり険しい旅はしたくない。
そんなときには、このあたりの本はなかなかいい旅先です。

自分なら選ばない世界へも行ってみる
少し前に読んだ『蒲生邸事件』(宮部みゆき著)も、別の意味で面白い読書でした。
主人公の孝史が、私ならまず選ばないような選択をするのです。
読んでいる私は、ときどき、
「なんで、そうなるんだ」
と思う。
それでもページをめくる。
好きになる必要も、賛成する必要もありません。
ただ、自分なら選ばない選択が成立している世界に、しばらく滞在する。
これも、読書でなければなかなかしない経験かもしれません。
旅も、少し似ています。
知らない土地へ行くと、自分にとっての「普通」が、その場所では普通ではないことがあります。
時間の感覚も、人との距離も、食べるものも、作法も違う。
そこへ行かなければ、自分の普通を「普通」だとさえ意識しなかったかもしれません。
本なら、違う時代へも行けます。
違う文化へ行く。
違う立場の人のところへ行く。
ときには、自分なら決して選ばない人生の中にも入っていく。
その世界を好きになる必要はありません。
そこに住み続ける必要もありません。
ただ、そこにはそういう世界がある。
それを知って、自分の場所へ帰ってきます。

カメラが一台ではなくなった
昔の私は、もっと物語にどっぷり入って読むのが好きでした。
もちろん、今でもそうなる本はあります。
ただ、ここ数年は、もう少し離れたところから見ている自分もいます。
物語を読みながら、
この人物には、世界がこう見えているのか。
この作家は、こういう人物を書くのが好きなのだな。
この時代から見ると、こうなるのか。
そして私は、これをどう見ているのだろう。
そんなふうに、何台かのカメラで同時に見ているような読み方をすることが増えました。
本の世界には入る。
でも、今ここでその本を読んでいる自分もいる。
どちらかを消す必要はありません。
以前、友人と話していたとき、その友人が、
「たぶん、私に見えている世界が、相手には見えていないんだと思う」
と言いました。
なるほど、と思いました。
相手には、こちらが見ているものが見えていない。
こちらが説明していることも、自分とは違う地図の上で受け取っているのかもしれない。
そして私はときどき、なぜその人からはこちらの世界が見えないのかを、なんとなく想像できることがあります。
その人が何を見ているのか。
どこから見ているのか。
なぜ、そこから見るとそうなるのか。
もちろん、本当にその人の世界が見えているわけではありません。
ただ、
「ああ。この場所からなら、そう見えるのかもしれない」
と考えることはできる。
もしかすると、私がこれまで本を読み、旅をして、違う世界の中に何度も入ってきたことも、
少し関係しているのかもしれません。
違う世界を知って、帰ってくる
世界がひとつではないと知ることは、すべての人と分かり合えるようになることではありません。
むしろ、逆かもしれません。
分かり合えない場所があっても、それほど不思議ではなくなる。
この人とは、こういうことなら話せる。
この人とは、ここについてなら一緒にできる。
でも、ここから先は、別々でいい。
必要なところでは、「それはやめてください」と言うこともある。
違うと思えば、違うと言うこともある。
でも、必要のないところまで、同じ世界を持つ必要はありません。
違う世界が同時に存在していいと知っているから、相手を消さなくていい。自分も消えなくていい。
そう考えると、自分を表現することにも、それほど大きな危険はなくなります。
私はこう思う。
私はこう見ている。
私はこれは選ばない。
そう言ったからといって、相手にも同じ世界を採用してもらう必要はありません。
相手が採用しなかったからといって、自分の世界がなくなるわけでもありません。
違う世界があると知ることと、そのすべてに入っていくことは、同じではない。
どこへ行くのか。
どこに長く滞在するのか。
どこからは帰ってくるのか。
誰と、どこまで道を一緒に歩くのか。
それを選ぶことができます。
だから私は、本を読むことを大事にしています。
読書は、知らない場所へ行くことができる娯楽です。
難しい道に迷うこともある。
思いがけず長居することもある。
自分には合わない場所もある。
そして、よく整備された道を、景色を楽しみながら歩く旅もあります。
この秋、私がしているのは、どうやらそんな旅です。
本を閉じれば、自分の場所へ帰ってきます。
でも、自分の中には、出発する前にはなかった景色がひとつ残っています。
『The Compass — 現在地を観察する16の座標』発売中
本を閉じたあと、自分の現在地へ戻るための16の座標があります。
答えを探すためではなく、
自分のコンパスで地図を読み、航海を続けるために。








